戦時中の大学授業料危機
秋の新学期を迎える大学には、本来なら学生たちの声が戻ってくるはずでした。
大きなトランクを抱えて寮に入る新入生。
履修する講義を相談する学生。
授業料を納めるため、事務棟の窓口に並ぶ保護者と若者たち。
ところが、戦争が始まると、その風景は一変します。
昨日まで数学や哲学、工学を学んでいた男子学生が、教科書を軍服に持ち替えてキャンパスを去りました。
卒業を目前にして入隊する学生もいました。大学に進学するはずだった若者のもとには、入学許可証より先に徴兵通知が届きました。
大学にとって、空席は単に学生が一人いなくなったという意味ではありません。
空いた椅子一つにつき、授業料が一人分消えることを意味しました。
寮費も入らない。
食堂の利用者も減る。
実験費や施設利用料も集まらない。
戦争は遠い戦場で行われていましたが、大学もまた、キャンパスを存続させるための別の戦いを始めなければならなかったのです。
そして男子学生が減少すると、大学はそれまで十分に受け入れてこなかった人々に目を向け始めます。
その一人が、女性でした。
なぜ戦争で学生が減ると大学経営が危機に陥るのか
現代の有名大学には、巨額の基金や企業からの寄付、研究費、政府補助金があります。
そのため、大学は授業料だけで運営されているわけではないという印象を持つ人も多いでしょう。
しかし、19世紀から20世紀前半にかけてのアメリカでは、事情が異なりました。
特に地方の小規模な私立大学、教員養成学校、設立されたばかりの州立大学は、学生が納める授業料に大きく依存していました。
大学の収入は、授業料だけではありません。
学生がキャンパスに暮らすことで、寮費、食費、実験費、図書館利用料、学生活動費なども入ってきます。
学生が一人減ると、複数の収入が同時に失われるのです。
| 大学の主な収入 | 戦時中の学生減少による影響 |
|---|---|
| 授業料 | 入隊・徴兵・休学した学生の分だけ直接減少 |
| 寮費 | 空室が増え、住宅収入が減少 |
| 食堂収入 | 食事を利用する学生が減少 |
| 実験・施設利用料 | 履修者が減り、付随収入も減少 |
| 卒業生からの寄付 | 戦時経済や軍務によって不安定化 |
| 地域・宗教団体の支援 | 地域経済の悪化により縮小する可能性 |
一方で、大学の支出は簡単には減らせません。
学生が半分になっても、教授の給与、建物の修繕費、暖房費、図書館の維持費は必要です。
つまり大学には、非常に現実的な問題が突きつけられました。
授業料を払う学生が戦場へ行ってしまったとき、大学は何によって存続すればよいのか。
南北戦争が明らかにした「男子大学」の弱点
1861年にアメリカ南北戦争が始まると、北部と南部の多くの大学生が軍隊に入りました。
同じ大学の学生たちがまとまって入隊することもありました。
戦場に近い大学では、校舎が病院、兵舎、倉庫、軍司令部として使用される場合もありました。
学生数だけでなく、地域経済や交通網、寄付金まで大きな打撃を受けたのです。
ただし、ここで注意しなければならないことがあります。
アメリカの大学が女性を受け入れ始めたのは、南北戦争だけが理由ではありません。
オハイオ州のオーバリン大学は、すでに1830年代から女性を正規の大学教育に受け入れていました。
アイオワ大学など、一部の州立大学も南北戦争以前から男女双方に門戸を開いていました。
つまり、戦争によって突然、女性教育が始まったわけではありません。
戦争が明らかにしたのは、男子学生だけに依存する大学経営の危うさでした。
戦争、景気後退、人口移動などによって若い男性が減れば、男子のみを募集する大学は大きな打撃を受けます。
一方、女性も受け入れる大学は、より広い層から学生を集めることができました。
女性の授業料は大学にとって無視できない収入になった
大学が女性を受け入れることは、財政面でも合理的でした。
例えば、40人入れる教室で25人しか授業を受けていなかったとします。
そこへ女性が10人加わっても、新しい校舎や新しい教授が必要になるとは限りません。
すでに存在する教室、図書館、教授陣を利用しながら、大学は新たな授業料収入を得られます。
これは経済学でいう限界費用と関係しています。
施設や教員をすでに確保している場合、追加の学生を数人受け入れる費用は、その学生が支払う授業料より小さくなることがあります。
だからといって、大学側が急に男女平等へ目覚めたわけではありません。
女性の大学進学が広がった背景には、複数の要因がありました。
宗教的な平等思想。
女性教育運動。
公立学校の拡大による女性教員の需要。
地域住民や家庭からの要望。
州立大学の成長。
大学同士の学生獲得競争。
そして、経営を維持するために授業料を払う学生を増やしたいという事情です。
教育理念と経営上の必要性は、同時に存在することがありました。
ひとことポイント
戦時中の大学史を読むときは、学生数だけでなく、授業料・寮費・政府契約がどう変化したかを見ると、制度改革の理由がよりはっきり見えてきます。
モリル法とランドグラント大学の拡大
1862年、南北戦争の最中にアメリカでモリル・ランドグラント法が成立しました。
この法律は、各州が連邦政府から与えられた土地やその売却益を活用し、農業、機械工学、軍事学などを教える大学を支援する仕組みをつくったものです。
こうして成長した大学は、一般にランドグラント大学と呼ばれます。
日本の読者には少し分かりにくい制度ですが、地域産業や農業を支える実践的な国公立大学を、国の土地政策によって育てた仕組みと考えると理解しやすいでしょう。
これらの大学は、東部の伝統的な名門校とは性格が異なりました。
古典語や神学だけでなく、農業、工学、産業技術などを重視し、より広い地域住民に教育を提供しようとしました。
中西部や西部の新しい大学にとって、女性を排除することは、地域社会の半分を学生候補から外すことでもありました。
男女共学は公共教育の理念だけでなく、学生数を確保するという点でも現実的だったのです。
デラウェア大学の事例――財政難で始まり、反発で後退した共学化
現在のデラウェア大学の前身であるデラウェア・カレッジは、19世紀に長期的な学生不足と財政難を経験しました。
大学は南北戦争が始まる前の1859年に一度閉鎖され、1870年に再開されました。
学校を立て直す過程で検討された方法の一つが、女性を正規学生として受け入れることでした。
1872年、デラウェア・カレッジは女性の入学を認めます。
しかし、男女共学はすぐに定着したわけではありませんでした。
地域社会や保守的な関係者の間には、女性が男性と同じ大学教育を受けることへの強い反発が残っていました。
その結果、大学は1885年に女性の受け入れを停止します。
その後、女性は別の女子大学で学ぶことになり、制度の統合を経て、本格的な共学体制が成立しました。
この事例は重要です。
財政上、女性を受け入れる必要があっても、卒業生、理事、地域社会、宗教関係者の反対によって改革が後退することがあったからです。
お金は制度を動かす力になりました。
しかし、偏見もまた制度を止める強い力でした。
第一次世界大戦で大学は軍事教育機関へ変わった
1917年、アメリカが第一次世界大戦に参戦すると、大学は再び大きく変化しました。
男子学生や教職員が軍務に就き、大学は授業日程を短縮しました。
一部のキャンパスでは軍事訓練が行われ、大学は士官候補生、技術者、医療関係者、通訳者、事務要員を育成する場所になりました。
男子学生が減少する中で、女性の存在感は高まります。
女性は看護、教育、栄養学、社会福祉、事務、実験補助など、戦時社会に必要とされた分野を学びました。
もちろん、差別がなくなったわけではありません。
女性は「家庭や世話の延長」と見なされる分野へ誘導されることが多く、医学や工学などでは依然として入学制限がありました。
寮、学生団体、研究施設の利用で不平等な扱いを受ける場合もありました。
それでも戦争は、「女性に高等教育を与えても使い道がない」という主張を弱めました。
女性たちは病院、行政機関、研究所、工場、救援団体で実際に働いたからです。
教育を受けた女性の能力が、社会の中で目に見える形で証明され始めたのです。
大学は本当に平等のために女性を受け入れたのか
ここまで調べていると、少し複雑な気持ちになります。
女性に大学の門戸が開かれたという結果だけを見れば、明らかな前進です。
しかし、その門を開いた理由が、いつも正義感や平等意識だったわけではありません。
男子学生が教室を埋め続け、授業料収入に困っていなかったとしても、大学は同じ速度で女性を受け入れたのでしょうか。
寮が満室のままだったなら、女性の知的能力を認めるまでに、さらに何年かかったのでしょうか。
歴史は、正しい結果が必ずしも純粋な動機から生まれるわけではないと教えてくれます。
女性教育を本気で支持した大学関係者もいました。
一方で、学生数と授業料を増やすため、現実的な選択として女性を受け入れた大学もありました。
多くの場合、この二つは完全に分けられるものではありません。
理想と経営は、同じ制度の中で重なっていたのです。
第二次世界大戦で大学の授業料収入が急減する
第二次世界大戦は、大学財政にさらに大きな衝撃を与えました。
1941年12月にアメリカが参戦すると、数百万人の若者が軍に入りました。
男子学生の割合が高かった大学では、在籍者数が急激に減少します。
現在の北アイオワ大学にあたる教員養成系の大学では、1930年代後半に約1,900人いた学生が、1943年には約820人、1944年にも900人未満まで減少しました。
わずか数年で、学生数が半分以下になったのです。
これは大学にとって、一時的な不便ではありませんでした。
存続そのものに関わる危機でした。
| 戦争前の大学 | 第二次世界大戦中の大学 |
|---|---|
| 一般学生の授業料が主な収入 | 民間男子学生の在籍数が急減 |
| 通常の学期制で授業を実施 | 短期・集中・通年型の教育課程を導入 |
| 寮は一般学生が利用 | 軍事訓練生の宿舎に転用 |
| 一般教養中心の教育 | 工学・医学・外国語・軍事教育が拡大 |
| 若い男子学生を中心に募集 | 女性、軍人、社会人学生の重要性が上昇 |
女性の入学拡大は、大学を支える方法の一つでした。
しかし、第二次世界大戦期には、さらに大きな支援者が登場します。
連邦政府です。
学生の代わりに政府が教育費を支払った
第二次世界大戦中、アメリカ軍は膨大な数の技術者、医師、外国語専門家、士官候補生を必要としていました。
政府は新しい教育機関を一からつくる代わりに、既存の大学を活用しました。
代表的な制度が、陸軍の**ASTP(Army Specialized Training Program/陸軍専門訓練計画)**です。
ASTPでは、軍人が全米の大学に配置され、工学、医学、科学、外国語などを集中的に学びました。
海軍もV-12 Navy College Training Programを運営し、大学で士官候補生を育成しました。
大学側から見ると、これらは教育制度であると同時に、重要な政府契約でした。
民間の男子学生がいなくなった教室に、軍服を着た訓練生が入りました。
連邦政府は大学に対し、教育、食事、宿泊、訓練サービスの費用を支払いました。
空室になるはずだった寮には軍人が住みました。
学生を失った教授は、軍事訓練生を教えました。
食堂や実験室も使い続けることができました。
つまり政府契約が、失われた授業料収入の一部を置き換えたのです。
女性は「男性の代役」ではなく、専門人材として働いた
第二次世界大戦中、科学、工学、医療、統計、通信、製造、行政の分野で深刻な人手不足が起こりました。
その結果、女性が大学や職業訓練へ進む機会も増えました。
女性たちは数学、化学、看護、栄養学、事務管理、研究補助、工学関連技術を学びました。
地図作製、暗号解読、航空、軍需生産、公衆衛生に関係する仕事に就く女性もいました。
しかし、多くの職場では女性を恒久的な専門職ではなく、「男性が戻るまでの代替要員」と見ていました。
賃金は低く、昇進の機会も限られ、戦争が終われば退職することを期待されました。
それでも、戦争は一つの矛盾をはっきりさせました。
女性に能力がなかったのではありません。
能力を発揮する機会が与えられていなかったのです。
名門男子大学はすぐに共学化しなかった
第二次世界大戦によって、すべての男子大学がすぐに女性を正規学生として受け入れたわけではありません。
ハーバード、イェール、プリンストンなどの東部名門大学は、豊富な基金、強力な卒業生組織、全国的な名声を持っていました。
また、近隣の女子大学と連携する仕組みもありました。
そのため、小規模な地方大学ほど急いで女性を正規入学させる必要がなかったのです。
一部の大学は、女性に特定の授業や大学院教育への参加を認めながら、学部の正式な共学化は長く先送りしました。
ここには、大学財政と制度改革の関係がよく表れています。
伝統を守り続けるには、お金が必要です。
資金に余裕のある大学は、男子中心の制度を長く維持できました。
一方、授業料収入が切実だった大学は、より早く学生層を広げなければなりませんでした。
戦争が終わると、今度は学生が多すぎる時代になった
戦時中、大学は学生不足に苦しみました。
ところが1945年以降、状況は逆転します。
1944年に成立した復員軍人援護法、通称GIビルによって、退役軍人の授業料や生活費が支援されたからです。
大量の退役軍人が大学へ進学しました。
教室は足りなくなり、寮も不足しました。
大学は仮設校舎や軍の施設、簡易住宅まで利用して学生を受け入れました。
GIビルは、アメリカの高等教育を一部の富裕層のものから、中間層へ広げる大きな力になりました。
労働者家庭や一般家庭の出身者も、大学卒業資格を得られるようになったのです。
ただし、その恩恵は平等ではありませんでした。
法律上、黒人退役軍人も支援対象でした。
しかし人種隔離、入学差別、地域行政の妨害、黒人大学の定員不足によって、多くの黒人退役軍人は白人と同じ機会を得られませんでした。
女性の軍人も全体では少数だったため、GIビルによる大学拡大の中心は男性でした。
大学の大衆化が進む一方で、既存の人種差別や性差別も残ったのです。
戦争は大学の収入構造そのものを変えた
二度の世界大戦は、アメリカの大学が資金を得る方法も変えました。
戦争以前の大学は、授業料、州政府の補助、寄付金、宗教団体の支援などに依存していました。
しかし第二次世界大戦を通じて、連邦政府の資金が大学へ大量に流れ込むようになります。
大学はレーダー、航空工学、医学、通信、計算技術、原子力などの研究に参加しました。
大学は単なる教育機関ではなく、国家の科学技術と安全保障を担う研究拠点になったのです。
戦争後も、国防研究費、科学研究助成金、奨学金、政府委託研究などを通じて、政府と大学の関係は続きました。
皮肉なことに、学生を奪って大学財政を危機に陥れた戦争が、現代的な研究大学を成長させる新しい資金構造もつくったのです。
アメリカの地域によって共学化の速度が違った理由
アメリカの男女共学化は、全国で同じように進んだわけではありません。
中西部・西部
新しい州立大学、宗教系大学、ランドグラント大学が多い地域でした。
大学を成長させるには、多くの学生を集める必要がありました。
男女双方を受け入れることは、地域社会への教育提供と経営安定の両面で合理的でした。
北東部
歴史の長い私立男子大学が多く、豊富な基金と強い卒業生組織を持っていました。
女性には別の女子大学や提携教育を提供し、男子大学としての伝統を維持する学校も少なくありませんでした。
南部
南北戦争の被害、戦後復興、保守的な性別役割、人種隔離、財政不足が複雑に絡み合っていました。
経営が苦しくても、社会的反対によって共学化が遅れる大学もありました。
つまり、財政は重要な要因でしたが、それだけではありません。
宗教、政治、人種、階級、大学の威信、卒業生の意見、地域文化も入学制度を左右しました。
女性は空席を埋めただけではなかった
女性の大学進学を、「戦争に行った男子学生の席を一時的に埋めた」と説明するだけでは不十分です。
女性は教員、看護師、図書館員、社会福祉士、栄養士、研究者、行政職員、医師、技術者、法律家、大学教授へと進んでいきました。
特に重要だったのが教員養成です。
19世紀後半、アメリカで公立学校が増えると、多数の教員が必要になりました。
女性は男性より安い賃金で雇用できるという差別的な理由から、教職へ大量に採用されました。
これは明らかな賃金差別です。
しかし同時に、女性が高等教育を受ける道を広げるという、皮肉な結果も生みました。
不平等な労働市場が女性教育の需要を生み、その教育を受けた女性たちが、やがて不平等そのものに異議を唱えるようになったのです。
戦争が男女平等をつくったのか
戦争は、既存の制度を激しく揺さぶります。
人が足りなくなり、予算が不足し、それまで当然とされていた社会のルールを見直さざるを得なくなります。
大学も例外ではありませんでした。
男子学生が軍隊へ行くと、大学は女性をより積極的に募集しました。
軍事訓練生を受け入れ、授業内容を再編し、政府との関係を強めました。
しかし、戦争が女性に平等を贈ったわけではありません。
女性は戦争以前から、教育を受ける権利を求めていました。
女性教育運動家、教員、学生、家族、宗教団体は、長い時間をかけて大学の門をたたき続けていたのです。
戦争は、その要求を生み出したのではありません。
大学が無視し続けることを難しくしたのです。
経営危機によって門が少し開いたとしても、その門を閉じられないものにしたのは、実際に入学し、学び、卒業し、差別と向き合った女性たちでした。
戦争が空にするのは、大学の教室だけではありません。
若者や労働者が軍務へ動員され、国家予算が軍需生産へ集中すると、民間向けの生産や物流も不安定になります。燃料、穀物、小麦粉、食用油などの価格が上がり、一般の人々は政府が発表する経済指標より先に、毎日購入する食品の値札から危機を感じるようになります。
では、戦争が長期化し、通貨の価値まで下落した場合、ラーメン一袋の価格はいったいどこまで上がるのでしょうか。
これは単なる想像の話ではありません。「戦争インフレ完全ガイド」 では、戦争が食料生産、物流網、為替、通貨供給に与える影響を整理し、ワイマール共和国、ハンガリー、ユーゴスラビア、ジンバブエなどの実例から、日用品の価格と人々の購買力が崩れていく過程を詳しく見ていきます。
コリの考え
戦時中の大学授業料問題を見ていると、大学も一つの組織であることを改めて感じます。
大学は知識、真理、公共性を語ります。
しかし授業料が入らなければ、教授の給与を支払うことも、図書館や教室を維持することもできません。
時には長年の道徳的な議論より、空いた寮と不足する運営費のほうが、制度を早く変えることがあります。
だからといって、その変化に価値がなかったわけではありません。
大学が女性を受け入れた最初の理由に経営上の事情が含まれていたとしても、入学した女性たちは単なる穴埋め要員ではありませんでした。
それまで大学が見落としていた、膨大な知的才能を持つ人々だったのです。
女性を排除する大学は、社会的に不公平だっただけではありません。
人材と可能性の半分を、自ら捨てていたともいえます。
戦争は、その大きな損失を見えなくしておくことを不可能にしました。
戦時中の大学授業料危機 参考資料
- Claudia Goldin and Lawrence F. Katz, “Putting the ‘Co’ in Education: Timing, Reasons, and Consequences of College Coeducation from 1835 to the Present,” National Bureau of Economic Research.
- University of Delaware Archives, デラウェア・カレッジと男女共学化に関する大学史資料。
- University of Northern Iowa Special Collections and University Archives, 第二次世界大戦期および戦後の学生数に関する資料。
- U.S. Army, Army Specialized Training Programに関する歴史資料。
- V-12 Navy College Training Programに関する米海軍および大学所蔵資料。
- Morrill Land-Grant Act of 1862に関するアメリカ議会・大学史資料。
- U.S. Department of Veterans Affairs, GI Billの歴史に関する資料。
- アメリカにおける女性の高等教育進出と男女共学化に関する研究。
- GIビルの運用と黒人退役軍人が受けた制度的差別に関する研究。
- Encyclopedia Britannica | Britannica
戦時中の大学授業料危機 Q&A
Q1. アメリカの大学は、男子学生が戦争へ行ったために初めて女性を受け入れたのですか?
いいえ。オーバリン大学や一部の州立大学は、南北戦争以前から女性を受け入れていました。戦争は男女共学化の唯一の原因ではありません。ただし、男子学生だけに依存する大学財政の弱さを明らかにし、女性教育運動、公立大学の拡大、教員需要、大学間競争とともに女性入学を促進する要因になりました。
Q2. 第二次世界大戦中、大学は失われた授業料収入をどのように補ったのですか?
女性や社会人などの学生募集を強化し、教育課程を短期化したほか、ASTPやV-12などの軍事訓練プログラムを受け入れました。政府が軍事訓練生の教育費、宿泊費、食費を大学へ支払ったため、空いた教室や寮を活用し、教授陣を維持することができました。
Q3. 第二次世界大戦後、女性の大学進学機会は再び失われたのですか?
退役軍人が大学や職場へ戻ると、男性を優先する動きや、女性に家庭へ戻ることを求める圧力が強まりました。しかし、戦時中に拡大した女性教育と専門職経験を完全に元へ戻すことはできませんでした。女性が科学、行政、医療、技術分野で能力を発揮した経験は、長期的な男女共学の拡大につながりました。

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